飛騨街道

飛騨街道とは、富山の町中から婦負郡中部を縦断して、飛騨高山に通じていた道で、富山では飛騨街道、高山道と言い、飛騨では越中街道と言い、宮川沿いを通った道を越中西街道、高原川左岸沿いの道を越中東街道と言われた。高原川右岸沿いの道は越中中道と言われた。
 富山から笹津までのルートは色々あったらしいが、現在、富山城下から大久保を通る道(県道318・笹津安養寺線)が主なルートだったと考えられている。笹津から猪谷の関所までのルートも、神通川右岸は加賀藩領で関所の検閲も厳しく、左岸の富山藩コースが検閲もそう厳しくなく人気?だったという。関所からは街道は東・西街道と分かれるが、東街道より雪崩の心配が少ない西街道が多く使われた。

 街道は越中・飛騨との物流が盛んに行われた。越中からは、米・魚(塩鰤等))・塩などが運ばれ、塩鰤の場合4本を竹籠に入れ1包みし、夕方に氷見を出発して富山で夜が明け、茂住で1泊し、翌日は古河(=古川)泊り、翌早朝高山に入ったという。これは、「通し!」の場合であり、普通は中継法がとられた。中継の場合、生魚で往復6日位、塩物で7日位、冬季のひどい時は10日以上もかかったという。蛇足になるが、江戸初期の塩の生産は瀬戸内が主だった。能登でも塩の生産はされていたが少量であり、とても物流になるほどでは無かったという。大量生産が可能になったのは江戸中期なので、塩鰤等の物流は江戸中期以降になるのかも………???

 このHPでは、管理人が軟弱なので富山県における飛騨街道だけを紹介しています。それも、猪谷移行は越中西街道だけを………岐阜県内における飛騨街道については、関連する文献、著書、他HPを探して下さいませませ。(汗)

 


大久保道に進む。

布市道に進む。

 

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