第3号 第24回サイクリングラリー 神奈川県大会

 

 

『友情の輪を広げよう、天下の険』 7月19〜20日


 来年の全国ラリーは富山県で行われる予定である。したがって、どのように大会が運営されるか、是非見ておこうとの県協会の方針にのっかり、はるばると箱根めざして出かけることとなった。
 富山からの参加者の大勢は自家用車利用であったが、二塚氏と相談の結果、列車利用の参加に決めた。と、いうのは、できるだけ疲れない方法で、気ままなコースを走ろうということから、費用に目をつぶることにし、夜行寝台(Bだよ)を確保し、箱根も旅館への宿泊を申し込んだのである。なお、大会は3日間であったが、2日間の参加(実質は1日)とした。
 出発の7月18日は、ずっーと梅雨空、曇り時々雨模様であり、高岡駅までタクシーにするか、自転車で行くかと、直前まで迷っていたが、なんとか濡れずに、21時半過ぎに駅前に走り込み、輪行袋に押し込んだ。
 二塚氏はというと、「Hi Taxi !!」 で乗りつけて、すでに待機しておられたが、あとで聞いたところによると「何級ですか?今度はどちらへ?」との質問を受けたそうである。
 22時11分。急行能登のBね、3号車11番、12番の下段にて、スイミンヤクの液体を飲み交わし、上野へと向かった。
 社用の出張なら、赤羽を過ぎるまでまでは絶対に起き出さないのであるが、今回は横浜へ直行せねばならぬので、大宮あたりで起き、洗面をすませた。
 車窓から見える道や屋根は、まだ雨で濡れており誠に心配な天気であった。
 上野駅のホームに降りると、同じ様な袋をかついだ人が、2〜3人同じ列車に乗っておられたことがわかった。石川県は山中のサイクリストであった。
 持ち物が大きく、同行者も増えたので、京浜東北線の一番前の車両に分散して乗った。折からの通勤ラッシュに、横浜駅で我々の電車を見送るわいと思っていたら目的の下車駅の一つ手前の桜木町上りの電車であった。一本後の電車は超満員でよほど乗るのをやめて、桜木町で組立ようかと話あったが、結局一駅だから何とか乗って行くことにした。
 関内駅の出口には、地元の世話方の人達が居られ、会場までの案内図と、高架下の自転車組立場を指示して下さった。
 開会式の会場の山下公園まで1.5km、まだ水たまりが残っているが、雨は止みどうやら晴れになりそうである。
 横浜港に面した山下公園は樹木も多く緑が濃い。
 

 受付の近くには協会の武部さん等、富山の連中がすでに到着しておられた。人数がそろったところで、名札と大会のワッペンをつけたサコッシュを貰った。中には食券、参加者名簿、箱根の1/5の集成図、コースの略図等が入っていた。
 持参のマスのすし弁当で朝食をすませ、外国船をバックに記念写真など撮った後、自転車を一時預かり所へ持っていった。
 そろいのユニホームを着た県もあり、公園の内外はにぎやかであった。
 名札には青文字と茶文字とがあり、青には箱根までのツーリング組、茶は市内コース組である。我々はもちろん青文字組である。
 公園のすぐ向かい側の素敵な県民ホールが開会式の会場であった。ロビーで記念品(スーベニールと言うものだそうです。)が売られ、コースの集印スタンプに長い行列が着いていた。地下には美術館部分もあり、さすが神奈川といった感じの立派な建物である。
 さっそく一隅に富山コーナーが設けられて、来年にそなえてアンケートを採り、記念品として立山弥陀ヶ原のカラーポスターを渡し始めれたが、たちまち無くなってしまった。
 県旗を最年長の和田さんに持ってもらい、プラカードは一番若い人に頼んで、立派な会場に席をとった。横浜市の消防音楽隊のフルメンバーが、次々曲を演奏されて、開会までのアトラクションとなった。
 参加者名簿によると、フランスからの3名を加え、地元神奈川が466名、隣の東京が68名など、全国から1200名を越すサイクリストが、一堂に会した。富山県からは34名で、高岡からは5名参加した。 各県のプラカードと旗の入場に始まり、開会式が進行したが、神奈川県知事の長渕さんのお祝いの言葉が一番印象的であり、場内の笑いもさそった。多回参加者など種々の表彰があったが、70才以上の参加者にはシルバー賞が与えられ、25名中より静岡の片山さんが86才で、代表として表彰状を受けられたが、さすがに腰もしっかりしてお元気そのもののようであった。
 11時少し前に式が終わり、会場出口で昼の弁当をもらい、自転車を受け出し、準備の済んだ人から出発していった。
 我々は11時20分出発したが、なにしろ箱根まで走る者が500名を越すのであるから大変である。10km程の間、交差点毎にダンゴとなった。横浜球場の南端で右折し、桜木町で左折し、一路西南へと向かった。平戸というところから国道1号に入ったが、2車線区間が多く、道路工事中のところも続き、自転車さえ、隙間を縫って前へ出ることは困難な状態が遊行寺(20km)付近まで続いた。車の排気ガスが漂っていて、我々田舎者には誠につらいコースである。戸塚駅前まで、会場から14.9kmなのに1時間10分もかかる始末で思うように走れなかった。12時40分頃、腹の虫のつなぎに牛乳休息をしたが、箱根を目指す仲間がどんどん通り過ぎていった。
 茅ヶ崎のミヤタ自転車の工場まで行けば、お茶やジュースも準備してあり、昼食に利用して下さいとの予告を受けて出発したのに、その手前の遊行寺にも休息所があると知っていたのに、12時53分、遊行寺の2km程手前の影取というところに神社があり、ジュースのある店があったので、がまんしきれず、昼食休息をとることにした。(通算22.1km) つぎつぎ通りすぎるサイクリストを見ていると、何となく落ち着けず、13時23分走り出した。
 

 遊行寺坂を下りはじめたとき、持ちつけないサコッシュの忘れ物に気づき、二塚氏は先程のお宮へ引き返した。その間、道に自転車を倒し、日陰で休んでいたところ、地元の世話方の人が通り、「どこか、身体でも都合が悪いのですか?」と声をかけられた。
 二塚氏が戻ってきたのは7分程度であったが、全く前後にサイクリストの姿が見えなくなってしまった。下り坂で勢いのついたまま、右折すべき交差点を直進して、東海道線の高架橋の登りにぶつかり、コースを誤ったことに気づいたが、すでに1.5kmも通り過ぎていた。ままよ、今さら戻るより、車の少ないこの道を海岸まで出た方が気持ちが良かろうと意見が一致した。茅ヶ崎からは本コースも海岸線の国道134号に入り、大磯まで行くことになっているのだ。
 遊行寺坂を下りはじめたとき、持ちつけないサコッシュの忘れ物に気づき、二塚氏は先程のお宮へ引き返した。その間、道に自転車を倒し、日陰で休んでいたところ、地元の世話方の人が通り、「どこか、身体でも都合が悪いのですか?」と声をかけられた。
 二塚氏が戻ってきたのは7分程度であったが、全く前後にサイクリストの姿が見えなくなってしまった。下り坂で勢いのついたまま、右折すべき交差点を直進して、東海道線の高架橋の登りにぶつかり、コースを誤ったことに気づいたが、すでに1.5kmも通り過ぎていた。ままよ、今さら戻るより、車の少ないこの道を海岸まで出た方が気持ちが良かろうと意見が一致した。茅ヶ崎からは本コースも海岸線の国道134号に入り、大磯まで行くことになっているのだ。 やがて本コースに合流。サイクリストの一行の中へ割り込む。ロードに乗った連中はさすがに早いが、ランドナーでも負けじとトップギヤでがんばる。しかし、我々が全体のどの辺にいるのか見当は一向につかない。とにかく走れ走れである。太平洋を左に、お日様カンカン、海水浴客おおぜい、目はどちらかといえば、左向きである。
 大磯から再び1号線に入る。折からの夏祭りのミコシも出ている。車も少な目となり、4車線区間が多くなって走りやすくなってきた。やや起伏のある道が国府津まで続き、平坦になる。
 小田原駅へのT字路の少し手前でアイスクリーム休息するまで36.5km、1時間50分程ノンストップであった。休みついでに小田原城へも脚を伸ばした。
 小田原を過ぎると、いよいよ登り道である。私はリュックを背負い、おまけに大きな板きれまで縛り付けてあり、風の抵抗も大きい。そろそろと、二塚氏に差をつけられるが、マイペース、マイペースである。とにかく16時17分箱根観光会館へピットイン。パンと牛乳が出て一休み。通算66.6kmである。
 約17分後、スタート。箱根の本格的な坂道はこれからである。道路は2車線となり、谷すじのためか、排ガスが滞留していて臭くてかなわない。押したり、たまーに、ちょっと乗ってみたりとなってくる。さすがに天下の剣である。縄ヶ池や細尾峠のほうがよほど楽である。大分の女性サイクリストが乗って上がっている。こちらも負けじと乗ってみるが、無理はしない方が良いと押して歩く。少し行くと、ゆっくり休んでいるので、歩いていても追い越せるが、また追い抜かれてしまう。でも結局、彼女の方が強かった。
 

 自転車を止めての休息をほとんどせず休むなら歩け!で進んだが、標高差500m、8.4kmに1時間50分もかかってしまった。18時3分、目的の小湧園の車庫へ収めたが、二塚氏は17時半頃に着いたとのこと。やはり若い人は強い。本日のトータルは75.0kmであった。
 ウン千ウン百人が泊まれるというだけあって箱根小湧園はさすがに大きい。宿の入口までの登りが、また5分程歩かねばならなかった。部屋割りは県別で、しょっちゅう、時々見る顔の人達6人での相部屋であったが、はじめ走っていた黒部の人も結局、伴走の自家用車に積み込んで来たらしく、すでに一風呂いや、一温泉を浴びてきておられたが、我々2人は絞れば汗が落ちるほどの衣服でたどり着いたのであった。
 夕食の品々は、払い込んだ金から見れば実に上等なものであったが、遅く着いたのと、人数が多いのとでつめたいものでさえなかった。配当のビール大をゆっくり傾け、同席した栃木の参加者と話がはずんだ。(後日、輪跡を送ったそうである。)
 ボリネシア風炉とかいって、いろいろな浴槽が立体的に設けられたところへ出かけ一通り入ってみたが、夕食後のキャンプファイヤーには参加しなかった。サイクルショーも閉場間際になって行ったので一通りさえ見られなかった。

 7月20日、昨日が関東地方の梅雨明けになったとかで、本日も絶好の日和である。本当は、A〜Gコースのいずれかを走ると良いのであろうが、こちらの都合に合わせて帰路につく。小田原へ下れば誠に楽であるが、もう少し箱根を走ろうということから、8時57分スタートで芦ノ湖を目指し上り道についた。約4km、26分で芦の湯峠に着く。小休止の後、峠から少し下ったところで、道路をはさんで、30数体の魔崖物が目に入ったので、わざわざ崖下まで自転車を運び記念撮影をした。それから一気に芦ノ湖湖畔まで下り、箱根神社へとまわり参拝した。(何を祈ってきたか?)
 関所跡付近の杉並木を左に見て再び上り道となる。10時29分箱根峠に着き休息。通算88.0km。ここで奈良県のサイクリストグループに会った。彼らは十国峠廻りで三島へ下るということであったので、我々も十国峠へ行くことにした。
 少し登ったあとは、ずーと下りで快調なダウンヒルコースであったが、一面ガスがかかり景色の方はさっぱりだめであった。
 11時4分、十国峠着。通算97.0kmとなった。早めの昼食を兼ねて、泡の出る物を買い求め40分休息。
 十国峠から熱海峠(通算98.3km)までは、アッという間であった。そして二塚氏は右へ三島へと下り、私は左へ熱海へと下ることとなり、別れた。
 二塚氏はフロントバックを自家用車組に預けて、サコッシュに入るだけの持ち物であったので、三島までの空いた下り道も、もしパンクがおきたらと心配しながら走ったそうである。三島からの新幹線で滋賀のサイクリストに合い話がはずんだとのことであった。
 一方、私は熱海から相模湾沿いに小田原、大磯、江ノ島、鎌倉、葉山と廻り、途中2つの有料道路を走り、108.6kmをこなして親戚の家へ16時56分に着き一泊し、翌21日逗子駅まで走り、夕方高岡へ帰り着いた。    
内島




跡書

本号のガリは、内島、二塚、石瀬、若杉、平林の5人が担当しました。
イラストでは宅美のものもあります。
 それぞれ持ち前の文字ですが、かえって親しみを受けるのではないかと思っています。
 冷夏にもめげず、よく走り、走るほどに書きまくった第3号です。


輪跡 第3号

発行日  1980年10月3日
発行者  高岡サイクリングフレンズ

 

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