第7号 ブナオ峠 x2
 

 

ブナオ峠 NO1    ソロの久々のブナオ峠行き

1982年8月22日 晴れ、途中雨   参加者   宅美


 8月22日、晴れである。筆者は部の行事であるコンサートを8月13日に終え、余暇ができたので、又又ブナオ峠を越える事にしたのである。
 7時51分に家を離れ、途中 I 女史 ( 女子、女史では意味が違うが原文そのまま ) 宅へ寄りカメラを借り、筆者はR156に乗った。10時27分に刀利ダムに着くが久々のランなので早くもバテ気味である。舗装は相当奥地まで進出している。中河内辺りで早くもオロロの出現である。事前に二塚氏に尋ねると、もう出ないと、のことだったのにと二塚氏を恨んでみてもオロロはしつこく筆者に取り付いてくる。
地名 到着 出発
高岡 - 07:51
砺波 08:45 08:50
福光駅 09:27 09:35
刀利ダム 10:27 10:35
ブナオ峠 12:50 13:27
西赤尾 13:50 14:03
小牧ダム 15:27 15:40
高岡 17:15 -
 下小屋を少し過ぎた辺りで早稲田大学のサイクリスト武田哲明氏と会う。彼はオロロ初体験らしく盛んに 「 ブヨが、、、」 と言っていた。筆者は輪跡3号で仕入れた知識や、TCFの活動を彼に披露したりしつつ一緒に4km/hの世界である。そのうち彼は4km/hに別れを告げ筆者と峠で待ち合わせることにする。
 峠の少し手前で 「 オーイ、ここから舗装やぞ!」 と、武田氏以外の声を耳にする。追いついてみると初心者ぽい少年2人がジュニアスポーツ車を押していた。筆者は当然、乗って彼等を追い越した。( 少々、無理をして?)
 峠で少年2人と、その仲間の少年1人と武田氏と合流。写真を撮って5人で言葉を交わすこと数分。3人少年は西赤尾に下って行った。武田氏も昼食を終え天生峠へ向かって下って行った。筆者は1人おもむろに昼食を開始する。
 13時27分、峠を後にするのと同時に雨が降り出したが、西赤尾に着いた時、雨は上がっていた。 ( 西赤尾側は完全舗装で下りやすい ) 岩瀬家前からI 女史に電話をし、愛車を高岡へ向けた。身体もなんとか調子を取り戻したようで途中の雨のパラツキもものともせず15時27分、小牧ダムに着いた。
 ここで再びI 女史に電話を入れ、同40分に出発。( アツイ ) 再び雨が降り出すが太田の辺りで上がってくれた。ペースは相当速く、黒田の駐在所まで1時間できてしまった。
 ここで、I 女史の出迎えを受け2人で話をしつつ17時15分、筆者は高岡の我が家へたどり着いた。  END


ブナオ峠・ブナノオ峠・父那尾峠・山毛尾峠、、、越えの道

冬には3m近く積もる雪。夏は刀利地区 (刀利、下刀利、滝谷これらはダムにより水没。 そして下小屋 以上は廃村) を中心に 「オロロ」 の大発生で人畜に被害を与える道である。
寺社、古い石建物等もない道である。
加えて、刀利から奥の道は幕府に提出するべき国絵図類にも記載されていない道である。
現存の道が開通したのは昭和40年で、以前は下小屋まで馬車が入る程度でその先は背丈を超える草をかきわけて進む一足道で、橋もなく川原をぬけ不動滝を見上げながらあえぎ峠に達した道で、加賀藩の密使か早使いか猟師等の通路であり、また金沢への硝煙の道でもあった。
下小屋より先は 「西赤尾道」 とも呼ばれ江戸への近道であったこの道は、加賀藩としては飛騨への陰道 (闇道) であった。

福光町史には、刀利地区には縄文中期の遺跡があったと記している。
伝説によれば、木曽義仲の残党が土着したところとも言われている。


ばった 追記

硝煙の道である旧街道は、現在の道とは若干違った所を通っていました。
あの恐怖の滝谷隧道の上に、峠が通っていました。名前は 彦尾峠です。
そして中河内を過ぎ、左巻きにグンと曲がる所に枝道がありますよね。
左方面は長瀞峡ですが、峡谷なので道幅が狭く通行が困難な為、先ほどの枝道経由で
下小屋に抜けていたようです。この間にも峠があり名前は、越戸峠といいます。
ブナオ峠も現在の位置ではなく、現峠より東側に存在していたようです。
そして、行徳寺の裏に通じていたようです。


 

ブナオ峠 NO2    スーパーA級への道    

1982年11月3日 快晴 結構寒い   参加者   西田、鈴木


 AM07:10 カッコイイ青年は太陽の光をSun、Sun ( くだらん ) と受けてぼうず頭のSuzuki宅に向かって走り出したのである。Suzuki宅を出たのは07:40 頃である。ちょっと遅いかなぁと思っているうちに砺波市役所に着く。
 ここで15分休。福光まではSuzukiの後につき快調に飛ばす。福光で20分休。そして刀利ダムへ。
 途中からSuzukiが飛ばす。私は後の事を考えてマイペースで!( ? ) ダムで、「 あの松木さんでさえ押している 」 などと話しているとSuzukiが 「 押さん !」 と言った。「 A級やぜ 」 などと戯けた事を言っている。ここで20分休。
 しばらく走り恐怖の滝谷隧道だ。ダイナモを倒すがライトがつかない。Suzukiに前に出てもらうが平衡感覚もとれない始末である。ソロで来た時はここを猛ダッシュしたのに・・・。中河内を過ぎてダートとなる。100mも行かぬうちにそこは押しの世界と化していた。しばらく乗りやすい道が続く。やはり祝日ともなるとMY CAR族が結構いるな〜と思いながらまた押しだす。そろそろ気が遠くなってきたので、峠の方から来る車を止めて不動滝までどれ位か聞くと、「 あと300m位だ 」 と言われたので張りきって押す。しかし、不動滝に着いたのは15分後であった。
 滝から50m程で舗装路に出る。ここでSuzukiが不動滝の方へチッコをする。
 エッチラ、オッチラと上り、二人はとうとうブナオ峠に立った。何をしに来たのか車が沢山止まっていた。昼を食べコーヒーの湯を沸かす燃料が少ないので割り箸や枯葉を燃やす。ウインドブレーカーを着込み西赤尾への30分位のダウンヒル。小牧までは私が前に出て飛ばす。 ( 途中、平村で休む。) そして17:30 やっと二塚サイクル到着したのであった。帰ってきてやはりソロよりペアRUNの方がいいと思った。
 そして私は、ソロとペア→ソロペア→ソペ→スーパ、、、スーパーA級になるのであった。  END

Suzukの談話
何だかんだ言ってブナオ峠へ行って来た。初めての自分にはなかなか手応えがあり過ぎた。実は上平から小牧まではバテ気味で、ずっと西田の後に付きっ放しだった、情けない、、、。まあ、西田のおかげで無事だったんだから感謝!感謝! 何かと苦労した事もあったけど、とても有意義なブナオ峠へのランだった。また行ってみたい。  END

輪跡7号にはブナオ峠の記事が2件掲載されていました
どちらも画像がない
え〜い! まとめちゃえ、、、

そんなんで、画像は昔のやつを載せときました


1977年8月14日 刀利ダム

1979年7月15日 滝谷隧道
灯りがが無く、砂利道
途中曲がっているので出口が見えない

1979年7月15日
長瀞峡 ここから傾斜が緩くなる

1977年8月14日
峠より福光方面

1977年8月14日
バテバテ状態

1979年7月15日 峠から西赤尾への下り
約10kmの砂利のダウンヒル
1977年8月14日当時より砂利が締まっている


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