江戸幕府は幕藩体制を維持するために、五街道を中心とする全国的な道路網の改編・整備に努めた。その具体的な施策として一里塚の構築と並木の植栽とがあり、これらは慶長六年(1604年)に指令されたという。

 一里塚は一里ごとに路傍の両側に築かれた円丘状の土盛りで、高さは約二間、直径は約五間あり、その中央に樹木が植えられて街道の道しるべとした。一里山・一里壇とも呼ばれ、文書には隻堠と記されることもある。
 『慶長見聞録』に「江戸日本橋を、一里塚のもとと定め、云々」とあるように、五街道では江戸日本橋を基点としたが、加賀藩では越中・越後国境の「境村一里塚」を基点として設置されたことが、正保四年(1647年)の『越中道記』などによって推察される。

 一里塚に植えられる樹種は、道中奉行の調査の結果からみると、エノキ55%、マツ27%、スギ8%を主とし、その他にサクラ・ウネ・タケなどもあるが、エノキが主体であったことが知られる。
 エノキを塚の上に植えることは、旅人安全祈念の対象物として、信仰上の深い内容を秘めた樹木であったようで、単なる里程の目印だけではなかったようだ。

 越中国内の北陸道に構築された一里塚の分布は、各種の古地図や古文書によって知られるが、江戸時代後期には既にそのいくつかは消滅していた。

 参考資料は富山県歴史の道調査報告書 -北陸道- です。
   
  第1号 : 境の一里塚 第2号 : 宮崎の一里塚
  第3号 : 赤川の一里塚 第4号 : 君嶋の一里塚
  第5号 : 柴垣の一里塚 第6号 : 沓掛の一里塚
  第7号 : 田家の一里塚 第8号 : 上村木の一里塚
  第9号 : 東川越の一里塚 第10号 : 坪川の一里塚
  第11号 : 東水橋の一里塚 第12号 : 西水橋の一里塚
  第13号 : 町新庄の一里塚 第14号 : 愛宕の一里塚
  第15号 : 吉作の一里塚 第16号 : 黒河の一里塚
  第17号 : 生源寺(水戸田)の一里塚 第18号 : 常国の一里塚
  第19号 : 中ノ宮の一里塚 第20号 : 矢部の一里塚
  第21号 : 芹川の一里塚 第22号 : 砂川の一里塚
  第23号 : 砂坂の一里塚
 


 その他に、
 『越中道記』には、北陸道本道の一里塚を記すだけで、他の道路の一里塚については記載がないが、「越中国四郡絵図」にはその他の諸道にも一里塚一里塚の記号を付している。
 
  番外1 : 小杉三ケの一里塚 番外2 : 横水の一里塚
  番外3 : 石川の一里塚 制作中^^ 番外4 : 福井県の一里塚





 



 第1号 : 境の一里塚

 (地図)

 「越中道記」では、壱里山村端ニ有 と記される。
 昭和40年に「境村一里塚」として、県文化財として史跡に指定されている。
 塚は、南北のうちの南塚が国道の工事(バイパス化)で形を留めていない。
 しかし、県内では唯一現存する一里塚である。
 加賀藩はこの一里塚を基点にしたとか。。。

 


 


 


 第2号 : 宮崎の一里塚

 (地図 多分)

 「越中道記」では、壱里山宮崎村はつれニ有 と記される。
 昭和五年の富山県史蹟名勝天然記念物調査会の九里愛雄委員の調査によると、宮崎の鹿島(鹿嶋?)神社の鳥居の両側に巨大なエノキがあってこれが一里塚の標樹であることが述べられている。しかし、台風で横倒ししたため取り除き、塚も取り壊し、境内一様の平坦地にしたという。
 画像は鹿島(鹿嶋?)神社の南側にある、北陸本線が単線時代だったときの廃トンネル。


 


 


 第3号 : 赤川の一里塚   (地図)多分…

 「越中道記」では、壱里山赤川村端ニ有 と記される。
 『入善宿由来記』によると明歴元年(1657年)同二年の大波によって、街道が壊滅したので経路が変更され、現在の古黒部経由の街道が新設されている。ここの一里塚は近年まで(=980年以前の近年の意味です。)、部落の西端にあったとのことである。

 多分ですが、海岸浸食で存在しないでしょう。。。


 


 


 第4号 : 君嶋の一里塚

 (地図)

 「越中道記」では、壱里山与入善町之間四町拾弐間 と記される。
 入善の近くで、海岸の八幡部落へ下る分岐点にある「左横山道」の道標から、横山の方へ10m下った所に一里塚の標柱がある。

   
 左の画像は、直進は横山、右は泊へ向かう旧北陸道。(地図)
 右の画像は、「左横山道」の道標。


 


 


 第五号 : 柴垣の一里塚

 
 画像は柴垣の一里塚跡の一本東側です。(地図) 街道とR8の間です。
 (南側R8から北側街道方向に撮りました。)
 以前、間違った画像を載せてしまったので修正。
 何人かの地元人に聞き込んだのだが、地元に一里塚が存在するという事実さえ知らないみたいだ。

 「越中道記」では、壱里山与入善町之間三拾壱町四拾八間 と記される。
 「往来絵図」では青木と道古新の中間、柴垣新地内にあったことを確認できる。
 しかし、街道から離れて対に在る。
 今の街道が付け替えられたということも考えられる。
 近年まで塚の痕跡があったものの、基盤整備により消滅。
 現在(1980年頃)は木製の標柱が建てられている。(見当たりませんですた。)


 


 


 第6号 : 沓掛の一里塚   (地図)多分…

 「越中道記」では、壱里山 沓掛町はつれニ有 と記される。
 「往来絵図」によると三日市よりの村端であることが確認できるという。
 明治末年頃までこの村北側に塚が在ったという。ただし、樹木は無しだったとか。


 


 


 第7号 : 田家の一里塚   (地図)

 「越中道記」では、壱里山 三日市川(現黒瀬川)之間拾五町 と記される。
 「地理志稿」では、田家新村至隻堠三町五十四間 とある。
 現在は区画整理され水準点(8.0m)がある。


 


 


 第8号 : 上村木の一里塚   (地図)多分…

 画像は上村木交差点。(黒部方面)

 古絵図によると上村木村はずれに一里塚があり、
 「地理志稿」では、壱里山 魚津町之間拾町拾弐間 と記される。
 1980年頃は水田になっている。
 多分、上村木交差点付近が一里塚跡だろう。


 


 


 第9号 : 東川越の一里塚

 (地図 多分)
 (画像は、早月川河口からミラージュランドの観覧車。)

 「越中道記」では、壱里山与小津町之間弐拾五町四拾八間 と記される。
 「北国海道絵図」では早月川の中州に明記されているが、「往来絵図」では川幅が広くなり、一里塚は記されていない。洪水で流されたのであろう。。。

  観覧車から街道東への風景です。


 


 


 第10号 : 坪川の一里塚

 (地図
 「越中道記」では、「壱里山滑川町端ニ有」と記される。
 画像は南側にある塚で、高さ3m・直径6m・幅7mもあり、往時の原型を留めているものと思われる。
 「地理志稿」には、「坪川新村枝路隻堠三町三十間。隻堠至坪川村旁一町」とある。

 
 こちらは、北側に有る塚です。


 


 


 第11号 : 東水橋の一里塚

 (地図)
 「越中道記」では、「壱里山水橋村之間壱町四拾八間」と記される。
 「地理志稿」には、「東水橋対岸至隻堠一〇町二二三十間。隻堠至上市町大橋五町」とある。
 街道沿いの不動堂敷地内に一里塚跡の石碑が有ります。
 残念ながら、塚としての雰囲気は在りません。


 


 


 第12号 : 西水橋の一里塚

 「越中道記」では、壱里山 町新庄村間弐拾壱町 とある。
 「三州地理志稿」や「往来図」にも記載がなく、文政年(1818~1830)当時、既に消滅していたものと思われる。


 


 


 第13号 : 町新庄の一里塚

 「越中道記」では、壱里山 町新庄村間拾五町 とある。
 「三州地理志稿」や「往来図」にも記載がなく、文政年(1818~1830)当時、既に消滅していたものと思われる。


 




 第14号 : 愛宕の一里塚(地図 多分)

 「越中道記」では、壱里山 愛宕村間六町 とある。
 「北国海道絵図」や「三州地理志稿」などによればく愛宕の町外れの道路の南側だけに一里塚があるが、明治三五年の神通川河道変更のために破壊されたものとみられる。


 




 第15号 : 吉作の一里塚

 (地図…多分)
 「越中道記」では、「壱里山花木新村之間七町四拾八間」と記される。
 「地理志稿」には、「追分茶屋から九町一〇間」の地点に一里塚が記されている。
 大正時代までは吉作の端に存在したという。

 画像クリックで説明板です。


  


 


 第16号 : 黒河の一里塚
 
 (地図)多分…

 「越中道記」では、壱里山黒河村之はつれニ有り」と記載される。
 現黒河公民館がその場所だったという。
 旧公民館が建っていたときには、「一里塚跡」なる標柱があったのだが今は無いみたいだ。
 画像は、黒河公民館。


 


 


 第17号 : 生源寺(水戸田)の一里塚
 
 (地図)

 「越中道記」では、壱里山与三戸田村之間三町三拾六間」と記載される。
 「地理志稿」「測量図籍」によれば、生源寺新の熊野往来(地図@多分)の分岐点から西に一町二間の地点に在ったことは明らかだという。
 資料では、「水戸田の一里塚と載っているが、説明文では「生源寺の一里塚」……
 地図的?には生源寺でしょう。w

 画像は、旧水戸田小学校前にある地蔵堂・荷馬車組合の馬頭観音碑・地元相撲関係の遺構です。
 
 


 


 第18号 : 常国の一里塚

 (地図)

 「越中道記」では、壱里山与常国村之間壱町拾八間」と記載される。
 「測量図籍」によれば、常国と中田との中間の道が中田に向かって西南に曲がる付近に在ったことは明らかだという。
 現在、一里塚は常国交差点の北東側にある公園内にあります。
 昔の1/5万地形図を見ると、常国西交差点は変形交差点だったはず。(北に進む道は無かったと思う。)街道はスーパーアローの敷地内を通っていた。


 


 


 第19号 : 中ノ宮の一里塚

 
 (地図 多分)JR城端線、戸出中田往来踏切より東付近。

 「越中道記」では、壱里山中ノ宮村はつれニ有 と記載される。
 「地理志稿」「測量図籍」などには記載されてないので、文政二年(1819年)当時には、もう存在しなかったとみられる。
 因みに、「越中道記」の記事は戸出開町前の出来事なので、「中ノ宮村はつれ」は今の戸出の東側にあたると思われる。多分だが、千保川の洪水で早くに流失したものと考えられる。


  


 


 第20号 : 矢部の一里塚

 (地図)晃照寺付近

 「越中道記」では、壱里山与古戸出村之間三拾三町 と記される。
 『測量図籍』によれば、往来から矢部・江波、また江尻への道路が分岐する十字路の東一町地点にあった事になっており、晃照寺付近にあったと伝えられる。

 街道は芹川から福岡・高岡方面に続くのだが、高岡開町以前の道は芹川→矢部→戸出→中田→水戸田→黒河→峠茶屋であった。高岡開町後、このコースは大道と記されている。


 


 


 第21号 : 芹川の一里塚

 (地図)

 「越中道記」では、壱里山与芹川村之間五町 と記される。
 『測量図籍』によれば、新旧の北陸道が合してから今石動の方に五町七間の地点にあり、と記される。
 塚は現存しないが、「一里塚の地蔵」(画像)の地蔵堂がある。
 そして、 ここを「芹川村ノ内、道番」としており、『三州地理志稿』にも「道番島隻堠」と記している。


  


 


 第22号 : 砂川の一里塚

 (地図)

 「越中道記」では、壱里山与今石動町之間七拾弐間 と記される。
 埴生から石動に入る北陸道は北陸本線と国道471号線(旧国道8号線)によって分断され、車は高架橋で、人は地下道を潜って渡るようになっている。この地下道入口の南部に地蔵様が沢山ある場所がある。ここが砂川の一里塚跡だという。
 
 地蔵群の南側で砂川が道路を横断しており、これが旧の村である埴生側の野端村と石動側の後谷村の境であるという。「往来絵図」によると、この川の砂川橋を挟んでの対岸に一里塚があった。
 現在、野端村側(埴生側)は民家が建ってしまい痕跡は無いが、後谷村(石動側)には六体地蔵や地蔵堂、文化9年銘の常夜灯が一基だけあり、その横には梵字を刻む苔むした石柱がある。
 
 現在、辺りは北陸新幹線工事が行われている。一里塚上を通るみたいなんだけど、今後どうなるのやら…


 


 


 第23号 : 砂坂の一里塚

 「越中道記」では、壱里山与新町之間拾五町 と記されるが、『測量図籍』その他には記載が無く、文政二年(1819年)測量当時には既に存在しなかったと見られる。

 資料(=富山県歴史の道調査報告書 -北陸道-)には、
 「(倶利伽羅峠から進んで来て、)砂坂で急な坂道が折れ曲がる所に、この峠では殆ど見かけない六字名号石塔(約2m)がある。更に進むと道脇に清水が流れていて、そのもとに巨石が人工的におかれている。ここは距離的には、今石動はずれの砂川橋のもとにあった一里山から丁度、一里の地点であるので砂坂の一里塚でなかろうか。」とある。
 しかし、現在は鬼のように整備され、どこがどこだか分からないだろう。。。

  (地図)砂坂頂上です。
 画像は、砂坂の頂きから、石動側に少し下った所です。


 


 


 番外1 : 小杉三ケの一里塚

  (地図)

 
 小杉三ケに伝えられる一里塚跡。
 「往来絵図」には道路の南側に一里塚に類似の記号を描いて「一本杉」と記すが、『測量図籍』にはまったく取り上げていない。


 


 


 番外2 : 横水の一里塚

  (地図)

 横水の一里塚は黒部川流域の上往還は万治年中(1658~61)の開通で、「越中国四郡絵図」には載せられてなく、「往来絵図」、「測量図席」にも描かれてはいない。
 そして、この前後に続くであろうと思われる一里塚は存在しない。
 これが一里塚とすれば、よくここまで残っていたものと言えるだろう。

 
 道路を挟んで西側にも塚がある。
 こちらには、庚申祠が置いてある。


 


 

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