第2号 TCA・センチュリーラン
記録シート 6 【 呉西右まわり+宮島峡 の記録 】 1980年5月11日(日) 小曲、稲垣、内島A(兄)、内島B(弟) 地図=富山、八尾,、城端、石動 (1/5万) |
【 呉西右まわり+宮島峡 】 内島B(弟) 小6
全所要時間 9時間45分 全休息時間 3時間10分 全平均速度 11.36km/h 走行時平均速度 16.82km/h |
【 呉西右まわり+縄ヶ池の記録 】 内島 父
全休息時間 2時間54分 全平均速度 12.14km/h 走行時平均速度 16.86km/h |
【 呉西右まわり+宮島峡 】の作文 内島B(弟) 小6 今日5月11日はセンチュリーランの日である。日曜だったのでお早うサイクリングがあったが、それを休んだ。お早うサイクリングは友達と参加回数を少しでも多くしようと競争しているが、それを休んでまでセンチュリーランに出たのは参加すればカッコよいバッジがあたると聞いたからである。センチュリーランは80キロでも160キロコースでも参加を認めてくれるということだったので、ぼくたちは80キロコースを走ることにした。 80キロではハーフセンチュリーである。 「 半分しか走らないのにバッジをもらうのは ひきょうだ! 」 というお兄さん達もあったが ( すいません、、意地悪を言ったのは ばったです。今でも記憶に残ってます。 ) 、バッジが手に入るなら、ひきょうでもなんでも良いと思っていた。 ぼくたちは、そんなわけで80キロコースを選んだ。80キロコースにも ご西コースと ご東コースの2つがあるが、ぼくたちの家はご西なのでご西コースに決めた。 ぼくと一しょに走ったのは、父と兄、小曲君、稲垣君である。コースは作道からいこいの村へ行き、庄川町から小矢部市をまわって家へもどることにした。地図で見ると時計まわりである。 自宅出発は7時20分である。これから80km走るのだと、はりきって出たが、かぜ気味だったのでちょっと苦しくて、いこいの村への登り道では遅れがちとなり、あせってしまった。 音川線を通り、安川から雄神橋へ行き弁ざい天へでた。ここからサイクリングロードがついており、そこを走った。アスファルトもガードも何もかも新しく、はりきって走った。かぜで不調だったがどうやら調子をとりもどした。 庄川町からサイクリングロードを井波へ向け走っていた時、一般道路との交又点で、ぼくのフロントバッグから水とうが落ちてしまった。ちょうどそこへ大がたの貸し切りバスが来た。 『 水とうがふまれる 』 と思ったが、バスの運転手さんはやさしい人、止まって下さったので水とうの命は助かった。しかし、バスの乗客達はぼくをめいわくそうに、ジロリとみんな見つめていた。その時は本当にみじめであった。 福野からコースを外して城端へむかった。コースもつまらなかったし、80キロではもの足りないというので縄ヶ池まで遠回りしようとしたのである。だが、ちょっととばしすぎて、こんどは小曲君がバテていたし、すごく暑くなってきたので、父だけ縄ヶ池へ向かい、ぼくたちは引きかえすことにした。 ところが、そこでちょっとした事件が起こった。父と別々になるので、弁当を分けようとフロントバッグを開けたところ、弁当係である兄が、おにぎりを持ってくるのを忘れており、昼食はおかずしかなかったのである。これではかわいそうと、父がお金を渡してパンでも買いなさいと言ってくれたので助かった。 福野へ引きかえし、駅前のスーパーマーケットでパンを買って昼食をすませた。それからゆっくり休けいして、出発しようとしたら、スーパーマーケットのそばに小さな犬小屋があるのに気付いた。その犬小屋はごくふ通の大きさであった。そこの犬はぼくがよって行くとしっぽをふったので、これなら安心と、なでてやろうと手を出した。するとその犬はにくらしいことに、ぼくの手にかみつくではないか。すぐびっくりして逃げていったが、かまれた時のいたさは次の日までも残るほどだった。このことはとてもくやしい。 それから津沢に向かった。津沢のまちは一度通ったことがある。それは千羽平へ市民サイクリングのコースを見に行った時である。その日はものすごく強い風で走れたものではなかったが、今日の天気は青空も見えて走りやすかった。 次に石動へ向かった。石動にはぼくのおばあちゃんの家があるので、あつかましいと思ったがよった。すると飲物を出してくださった。 それからまたコースを外し、宮島峡へ向かった。ちょうど二の滝の近くに温泉が出ていて、それが入浴料を取らないというのだったから、それを目あて行ったのである。その湯は湯かげんもちょうど良くて気持がよかった。 おばあちゃんの家へもどって出発の用意をしていると、今度はアップルジュースを出して下さった。それがまたおいしいこと、おいしいこと。おそくなったが風呂上がりの一ぱいという感じで、本当においしかった。 それから麻生谷へ向かった。アップルジュースのせいかも知れなかったが、4人とも足のまわりが良く、なんと30分で麻生谷へついてしまった。それぐらいなんでもないという人もいるだろうが、ほんとうに気持ちよく走れたのである。ぼくはこのペースで守山まで行けると思ったが、バテぎみの人もあり、ちょっとスピードがおちた。 そのあとは、家に帰れるとはりきってとばした。その時足のうらのへんが変な感じになっていた。と中、父と分かれたあとで、トロトロ走りもあったので、ちょっと遅くなってしまった。 帰宅後、30分ほどして父が帰ってきた。ぼくたちの本日の全走行距離は110.7キロであった。 − 終わり − 輪跡のガリを切った人も原文を忠実に再現したと思うので、 ばったもそのまま輪跡の文章をここに載せました。 当時、小学6年生。今じゃ、30越えるおっさん ?( 失礼! )、、、 でも、当時の作文がこんな形で掲載されるとは思わなかっただろうな。 私だったら恥ずかしいので、次ページをクリックしちゃいます、、、 意地悪なお兄さん達の一人、ばったより。 |
【 呉東左まわりコースの記録 】 1980年5月11日(日) 金谷、平林、二塚、津幡、麻生、大井、 福沢、宅美、塚原、前田 コース TCA予定コース。ただし、坪野より須蘇末峠経由で高岡に戻り、 呉西コースは完走しなかった。 |
全所要時間 8時間29分 全休息時間 1時間58分 走行時平均速度 20.2km/h |
【 呉東左まわりコースの紀行文】 麻生 全面舗装の高低差なしの市街地ランだという。この伊東 「 ラン 」 を二塚サイクルで耳に入れた時、クラブ員全部とまではいかないまでも、半分くらいの人は ( 自分も含む?) 「 バッジ貰えるんか〜! なら、いややけどでてみるかいな〜。 」 と思った事であろうと想像される。いざ走ろうと決める時には、心のすみのどこかでバッジへの期待が縮こまったり、伸びたりしているものである。 とにかく完走目指して10人でスタートしたのであるが、走っているうちに、何度か通っている憩いの村までの見慣れた道をはずれている様な錯覚にとらわれた。見知らぬ道となったはずなのに、いつものサイクリングの様に峠を目指す砂利道の千差万別の景色の道では無かった。一様の景色しか見えない市街地が続くので 「 あれ、ここ、さっき通った所ではないかな〜 」 などと錯覚をおこし、精神的にとても疲れた。 昼メシも、常願寺川の大日橋の下では、いつもの大自然の中のにぎやかな昼メシとうって変わり、葬式の様な静かなものとなってしまい、よけいこの伊東 「 ラン 」 はシラケたものになったと私は断言する。それでも午後は元気が出て、昼メシ前のバテと興味なしで走った最下位から流出した。が、おもしろくないのは午後も変わらなかった。 途中で、カゼをこじらせたと早々に落伍した物や、2/3まで走ったところで面白くないし、疲れたからと抜けていった者もあった。 そうは言ってみても残りの人達 ( 自分も含む ) も予定通り全コース走らなかったのであるから、大きな口はたたけない。 しかし、午前中に何十人ものサイクリストと 「 ピース 」 の挨拶を交わし一瞬の友好を温めることができたのは、この 「 ラン 」 の唯一の収穫であった。 終わり |
事務局前 大日橋 |
いこいの村 須蘇末峠 |