第5号 新万波峠ソロツーリング
1981.531 晴れ 風強し 午前2時に起床。寝不足気味でボケーとしながら出発準備。妻は寝ぼけ眼で 「気をつけてへ」 と、こよいの別れでもあるまいに 「あとは頼むぞ」 と出発。 (なんと麗しき夫婦愛) ダイナモと風の音、ランプの薄明かり、ソロには夜が特にコタエル。成子橋辺りから空が明るくなり始めたが向かい風になり、楡原辺りからは雨どいも飛びかうような強風が弱い物イジメをする。この強風、打保まで続く。打保の一つ手前、戸谷の民宿で本日の目的である 『戸谷を遡上し万波峠へ』 の道を尋ねると、砂防ダム工事の道は途中まであるが峠までは行けず、打保からならとの言であった。 押しの石瀬としては、近くの山なら遡行を強行となるのだが、なにせ岐阜の山のこと、さらに昨年、楡原の上行寺付近でさえ熊がでたとか、帰りの体力を考え断念。 大谷林道の峠までの間、オロロもおらず当然歩きである。山菜採りの自動車がよく往来する。 (実際、ウドが多い。後日、家族と共に車で来て採り、味噌漬けにして今も酒の肴になっている。) 打保から登りきった所が新万波峠らしいが、そこを通過し見晴らしのよい所で昼飯 (まだ9時過ぎ) 天気も良く、残雪の金剛堂山、小白木及び白木峰等をカメラに納め雄大な風景を楽しむ。 |
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万波神社跡を通り過ぎた辺りから所々に残雪があり、山菜採りの自動車をとめていた。これからが自転車ならではと気を良くし、乗ったり押したり。水芭蕉及び座禅草、金剛堂山を自転車をバックにカメラに納めながら白樺林の万波高原をのんびりとペダルを踏む。 ところが!ところが! 左、楢峠 右、八尾 という県境の枝路からは、所々で4〜5mもある残雪が大長谷川の深い谷底へ向かって急角度をなして、押しの石瀬をも拒む。押しから担ぎに変身し、しばらくはなんとか雪の尾根を歩くが、それもやがて背にした自転車が崖に突掛けられて共に谷へ落とされそうになり動けなくなる。 弱い脳味噌もハイスピードで回転する。結果、自転車はここに置いて単身下山し、雪解けを待つか。それとも、自動車にロープを積んで取りの来るかとなる。 (再度) ところが!ところが! 幸いにも山菜を採り、これから下山という人達に会い教えを請う。なんと、谷底へ一度降りてしまうのだと言う。そこで、急斜面をなす残雪に自転車を寝かせ、ペダルを雪に打ち込み、共に谷底へズルズル。( 注 谷底の残雪が薄い事アリ ) 登りは、道の有りそうな所へ向かって斜めに登る。再びアスファルトの道路に出られた時の気持ちは、体験者以外には解することはできない。故に、帰りも向かい風となっても何ら苦もなく走る。 千里で飲んだビールでやっと人心地をつけて、妻子の待つ我が家へと、マイホーム パパは、、、、、、。押しの石瀬 歴史コーナー ( 十三石橋 ) ( 婦負郡 ) K.I 大長谷川渓谷は昔 「 越の箱根路 」 と言われ大長谷川をさかのぼり飛騨 ( 岐阜県 ) へ出たと言う。廃村になった切詰村には守人が詰め、庵谷村には関所があったという。 今、室牧ダムになっている辺りに昔大蛇が住んでいて、八尾の池にいた玉蛇のもとへしげしげと通い、そのたびに大洪水を起こした。人々の難儀をみかねた大長谷島地八幡がオス、メスの蛇を八尾町の浄円寺にあずけ、玉蛇の池を埋め水田とした。この水田からは米が十三石とれたという。現在、井田川の河床となり水田跡に十三石橋がある。 井田川の古名は咲田川で、サキタ→サイタ→イタ→イダ、となったと言う。 この川の守り神の咲田姫は杉原彦と共に荒れ地を開くが過労で倒れ、杉原彦は姫を背にして薬草を求め歩いた故事から、婦負郡の名ができたと言う。 |