第7号 唐木峠から朴峠、五箇山旧街道を歩く !!
1982年10月31日 晴れ |
8時に出発。出発したのは良いけど、毎度のことながら行く場所がどの辺だか良くわからない。それにボトル・インフレーターも忘れてしまって多少不安な気分。 城端の駅で一休みして又出発。この辺からボチボチ上りになってくる。 304号線の上りは距離は短かったけれど、どこまで行けば良いかわからず酷かった。そこから左に曲がってダートに入ったのは良いけど、前輪が滑って2回も転んでしまった。なんと西田君に転び方が上手いと感動されてしまった。 10時30分になったら一番前の者は待っていてくれと言われたので、30分になったら休めるとばかり思いながら上った。 なんだかんだで25分位に旧五箇山街道登り口に着いた。 そこに自転車を置いて、今度は歩いて旧道を登っていく。が、かなり急な登りでおまけに石畳の上に苔が生えていてスベリやすい。唐木峠まではわりと早く着いた。たしか15分位で着いたんじゃないかと思う。 唐木峠で早めの昼食を食べる。なんといっても、これが一番楽しい。で、食べ終わった後、朴峠に行くと言った。けれど、誰も行こうとはしなかったが、なんだかんだで10人位で行くことになった。 この後が酷かった。もう殆ど道が無く崖の真ん中に少し平たい所が在るだけ、という感じであった。所々崩れているからしまつが悪い。唐木峠迄と同じ位と聞いていたのに、えらく時間がかかった。 福沢君は荷物のボトルを落とした。なぜか高橋君がサルの様にガケを降りて取ってきた。なにしろ、人喰谷の上を通るのだから下を見るのが怖かった。だけど、峠に着いた時は嬉かった。 この峠には城端山岳会が設置した標柱が立っており、その上に巣箱の様な箱が在る。 その中には登山者名簿が置いてあり、二塚のオッサンが全員の名前を書き入れた。 しばらく休んで引き返したのは良いけれど、ほとんど転がり落ちているような感じであった。 end |
旧五箇山街道 林道縄ガ池線からの入口 |
唐木峠 ここまでは割と楽にたどり着ける |
唐木峠にてメシ |
唐木峠にてメシ | 朴峠 |
唐木峠 朴峠
ワシが行ったときは唐木峠から先は草ボーボーであった。んで、高落場山に登ったのであった
朴峠の名の由来は、城端側はそうでもないが平村側は急坂で這う様に登る所から、はう→ほお になったみたい
峠から平側に30m下がった所に「お助け小屋」跡地があるらしい
この小屋のおかげで、冬季でも通行可能であった
歴史のある峠で、天保一四年(1843年)の古文書にも載っているらしい
小屋は通行人の休憩所、産物の行き来のチェック、流刑人の逃亡の取り締まり
そして、避難小屋の機能を果たしていた
管理人の名に、助右衛門の名が在り助右衛門の一族の世襲で小屋を営んでいた
この子孫の名前が驚くことに、朴峠の名字で大坂に住んでいらっしゃる
そして、峠より平側の約8ヘクタールの山林が今も(昭和60年の讀賣新聞 北陸の峠を参照)朴峠家の所有である
名実共に朴峠の主である
小屋は合掌造りで明治35年に梨谷地区に移転され
昭和30年代後半に村を疎開したしたが小屋は買い手が決まり引き取られた
その引取先は羽咋市のゴルフ場で休憩場所として残っているらしい
ワシはゴルフはしないが、行ってみたいもんである
でも、藩政時代から続いたお助け小屋が休憩所として残っているのも凄いことだと思う
小屋がたたまれたのは明治30年代で、新しく開けた細尾峠越えルート(トンネル完成は昭和5年)に役目が移り
その細尾峠越えルートも昭和59年に開通した五箇山トンネルに幹線の役目が移った
この五箇山トンネルは皮肉なことに朴峠の真下を通っている
そして現在、東海北陸道が通っている
高速嫌いのワシでさえ、五箇山方面にお邪魔するとき使ってしまう程である